海の近くに住んでいる。
“近く”どころか、部屋の中からは蒼い海が一望できるような環境だ。
対岸には別荘地の丘があり、自然に溢れ、真っ白な船が往来している。
休日になれば、海辺のカフェには観光客が列を作る。
私にとっての「日常」は、誰かにとっての「特別」なのだ。
昔、中学時代の恩師である国語の伊藤先生が言っていた。
『スカッと晴れた青い空は、とても気持ちがいいものである。
しかし、ある人から見れば、あまりにも眩しく鬱陶しいものである』と。
きっと、私のこの生活は、ある人から見れば理想の生活なのだろう。
古い昭和バブル期のコンドミニアム。
スーパーまでは車で15分。
海までは数分。
街までは1時間ほどかかるが、たまに誰かに街遊びへ誘われることもある。
でも基本はひとりだ。それとクロネコがいる。
昔の自分なら、こんな環境に憧れていたと思う。
人間関係に縛られず、
嫌な仕事もせず、
自然の近くで、自分のペースで暮らす。
いわゆる「自由な生活」。
そう、街に住んでいたころの「理想」がここにはある。
願いが叶っている状態だ。
でも、面白いもので、
実際にそこへ辿り着いてみると、
不思議なことが起きた。
『人生が止まった。』
正確に言えば、私には止まったように感じた。
別に毎日が不幸なわけじゃない。
むしろ静かだ。
朝、海へ行く。
腹が減ったら飯を食う。
眠くなったら寝る。
誰かに怒鳴られることもない。
理不尽な上司もいない。
世間体を気にして無理をする必要もない。
なのに、未来へ向かう力が出てこない。
「次はこれがしたい」が無い。
昔はあった。
もっと自由になりたい。
もっと稼ぎたい。
もっと自分らしく生きたい。
そうやって走っていた。
でも、色々なものを手放していくうちに、ある地点で気づいてしまった。
もしかして、自分は“自由になりたかった”んじゃなく、“苦痛から離れたかった”だけなのかもしれない。
仕事から離れた。
人間関係から離れた。
結婚から離れた。
土地から離れた。
役割から離れた。
そして最後に残ったのが、「自分」だった。
これが結構きつい。
海へ行っても、自分。
旅へ出ても、自分。
静かな部屋にいても、自分。
どこまで行っても、“この意識”からは離職できない。
最近、思う。
自分は人生について考えすぎたのかもしれない。
普通の人なら、忙しさや人間関係の中で薄まっていく問いを、自分はずっと握り続けてしまった。
「自由とは何か」
「生きる意味とは何か」
「欲望とは何か」
「エゴとは何か」
「なぜ人は何者かになろうとするのか」
そういうものを長年掘り続けた結果、気づけばゲームの外側へ出てしまった感覚がある。
でも、人間はゲームの仕組みを理解したからといって、生きなくてよくなるわけじゃない。
腹は減るし、金も減る。
孤独にもなる。
だから今、自分は「人生を成功させる方法」ではなく、
“どうすれば、これ以上消耗せずに存在できるか”
を考えている。
若い頃みたいな熱量は残念ながらもう無い。
でも完全に絶望しているわけでもない。
ただ、静かに漂っている。
今の私は、そんな感じだ。


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