万物を【戻す】ことはできない。壊れたものは二度と完璧には直せないことを知るべきである。

どんなに大切なものも、一度壊れたら完璧な姿に【戻す】ことはできない。

それは【自分】もそう。今、こうなってしまった自分を何度も何度も否定し続けてきた。これまでにやってきた事も、そして、やってきた自分自身をも否定し続けてきた。「そんなはずはない」って。そして、行き着く先はいつも“ここではない何処かへ…”と・・・。

ここではない何処かなら・・・。

まだ見ぬ分かり合える友達となら・・・。

運命の相手となら・・・やり遂げることができるだろう。(何を?)

虚無な想像のセカイで思いを馳せてきた。自分以外の何か(人、モノ、環境)のせいにして、それを言い訳のタネにしてきた。そうすることで自分を成立させてきたのだと思うと、情けなくてたまらない。正直、こんなpublicな場所に公開していることが恥ずかしい。しかし、そうでもしなければ自分に嘘を吐き続けてしまう。もう、そういう段階まで来ていると実感している。(あぁ、情けない、情けなくて笑えてくる)

わたしはずっと、“戻そう”と考えてきた。“いつからそうだったのか”も、過去を遡って考えることが多かった。つまり、過去の自分のせいにもしているわけである。(では、今の自分のせいにすればいいのか・・・?ちょっとここはまだわからない)

しかし、確定していることがある。それは、本当に一度壊れたものを元通りに戻すことはできない!ということ。【戻す】という概念自体があり得ないのかもしれない。例えば、ココにあった物を元の場所へ戻す。ということですら、本当に完璧に元あった場所ではないのだから。

現代金継ぎ Contemporary KINTSUGI 中目黒 / 常田 朝子

感覚的には金継ぎなどに近い。元通りではないけれど、また使える形に修復することはできる。それでもそれ相応の技術や鍛錬が必要で、そこに美しさが存在する。修復、修繕である。

わたしの趣味のサーフィンである、サーフボードだってそう。一度壊してしまったら元通りには戻らない。何とか使えるようにするだけ。そして、そこには技術がある。

人間関係だってそう。何度も何度もチャレンジしてくれた(当時の)仲間たちがいたけれど、わたしが拒否をし続けて壊し続けてきてしまった。“またいつか”その時がきたら、その気になったら、その時は戻ればいいやって。今ではない理由をつけては自己肯定し続けてきたんだ。だけど、【戻る】という概念が存在しないのだとしたら、元通りにはならない。

分かりやすく言うと、時間を戻すことはできないのである。

わたしは何度も何度もリスタートしてきた。

自分を変えずに、そのままの自分で勝負できる環境を求めて。

しかし、当然そんな場所はなく、自分を変える方が早いということを知っている。若ければ若いほど、環境を変えることは容易だが、一度ぶち当たった壁は【カルマ】となって、また襲いかかってくる。この大きな流れの中に身を置いている自分という存在。その一粒の存在が、その置かれた場所でどう咲くのかを周りは見ているんだ。きっと。

自分に幻滅したり、“こんなはずじゃなかった”と後悔したり、それそのものが【戻す】ことができる前提での感情だと思う。本心で戻すことができないことを理解しているのだとしたら、「幻滅」にも「後悔」にも意味がないのだからね。

つまり、時と共に過去は常に過ぎ去っている。今がいまであるのは今この瞬間だけで、1秒後には過去になっている。特に、人に対してやってきてしまったことは戻せない。一度やったことは観測されてしまっている。観測された時点で事実であるのだから、その事実から逃れることができなくなってしまう。「勘違いされてる」と、本来そこにある事実を自分の中で認めずに相手のせいにして「あいつはわかってないから」って、味方を集めるような行為に意味はない。(本当に全く意味がない)

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人生はいつもスタートライン

人生はいつもスタートラインに立っているのである。

つまり、これまでに何度も言っているように、時間が戻せない以上、常にあるのは「今」と「これから」である。そして、自分はいつもその先頭に立っている。それがスタートラインである。常に、これからどうするかの先頭なのだ。

今ある自分でどうするか?ってこと。

過去を語らずとも全てはそこにある。すでに完成品なのである。過去を語り自分を大きく見せようとするなんてとんでもない。そんなものは【虚勢】でしかない。(見苦しいのでそんなことは絶対にしてはならない)若い時が潔いのは、このためだと思う。「今」を生きているから、自分を言葉や物語で脚色しない、しようとしないから。

まず、今の完成された自分がある。そして、その自分がどうするか、何をするかなのだ。過去は関係ない。今までどうしてたかも関係ない。無駄に蓄積された経験や知識は全て捨てるべきだ。そんなものがあればあるほど邪魔をするだけだ。

スタートラインに立っている自分がこれからどうするか。そこにかけるべきなのである。

過去の話ばかりする40代

過去の話ばかりする人ってダサいよね。昔話をする人って、その時点で「自分は過去の人間である」と宣言しているようなものである。その時点で先へ進むことに一歩遅れをとっているのではないだろうか。(人生は勝負ではないことは理解しているつもりであるが、まだまだこのような考えに囚われてしまうから修行が足りていない)

とにかく、ダサい人にはなりたくない。

では、どんな人になりたいか?

それが重要なのである。

最初は嘘でもいいから、自分が成りたい者に成り切る。そうやっているとそのうちに本当にそんな人になっているものである。

重要なのは観測者である

最も大切にすべきは「観測者」である。

観測者という言葉から連想するのは「シュレーディンガーの猫」「自分は他人の中にいる(友人談)」である。

物理学「量子もつれ効果」でシュレーディンガーの猫の撮影に成功(オーストリア研究) | カラパイア

「シュレーディンガーの猫」は有名な量子力学の実験なのであるが、こんなわたしのような素人が語って良いレベルのscienceではないので、気になる人はWikipediaでも検索してみてほしい。▶︎シュレーディンガーの猫Wikipedia

「自分は他人の中にいる(友人談)」の方は、短くまとめることができる。

人は若い頃によく「自分探しの旅」をする。どこに自分を探すかは人それぞれなわけだけども、わたしのような若い頃から突拍子もないようなことばかりやっている変わり者はだいたいインドあたりへ自分を探しに行く。

だが、考えてみてほしい。はじめてインドへ行くときに、行ったこともない場所に自分を落としてきたのだろうか?行ったこともないのに…?自分は常にじぶん。あ、そうそう。人は4歳くらいまで「じぶん」という概念がない。つまり、じぶんもともだちも区別していないのである。じぶんという概念が生まれるのは、自分のモノが出来始めてかららしい。つまり、所有権がじぶんという概念を生むわけである。盗られてはいけないからね。

話を戻そう。

インドへ行ったことがない人は、自分をインドに忘れてくることができない。

つまり、自分は常にじぶんの中にいるわけなのだが。何を隠そう、わたしはそのじぶんを掘りすぎてめくれてしまった。めくれるほど探してもじぶんなんて自分の中にはいなかったのである。

そこで、友人から有難い言葉をもらった。それが、『自分は他人の中にいるよ。そして、深く関わった人数が解像度だね。』ということである。

この言葉、スッと理解できる人がどれほどいるのであろうか。

わたしがこの言葉を貰った時、そのことが腑に落ちるまでに実に1ヶ月以上を要した。なぜなら、これまでに自分が思っていた概念とは真逆の概念だったからである。そりゃそうだ、自分はじぶんの中にいると思い込んでいて、探しても探しても見つからないことに苛立ちを覚えていた。あまりにも答えが見つからないから、自分の中に四重、五重に自分を重ねた。

  1. 当事者である自分
  2. 当事者である自分を見ている自分
  3. その1と2を俯瞰して見ている自分(ここまではまぁ普通)
  4. そして3までの全ては4の自分のフィールドの上

…と、自分の中のじぶんを探すと、どこまでも深く深く潜ってしまうのである。そして、友人曰く、自分が見ている(考えている)自分は本当のじぶんとは大きくかけ離れている場合が多い(というか、滅裂なんだとか)

つまり、自分でじぶんを観測することは不可能なのである。

どういうことかというと、自分でじぶんを観測しようとした場合、とても都合の良いベクトルが加えられる。人は自分が信じたいものしか信じない都合の良い生き物である。例えば、ある疑問に対しての答えを探していたとする。そして、その答えは「A」であると仮定して情報収集した場合、その収集方法はAA以外を集める。そして、集めた情報は答えがAである根拠を裏付けるというベクトルがかかるのである。

何ともご都合の良いことである。

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