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“部屋”から世界へ。活動の“証”を持つということ

ライブ配信は、とてもいいセカイだった。
空気も、時間の流れも、猫も、音も。
ただ、正直に言うと、laptopを常に使いたい自分には向いてないなって思った(笑)。

だから「部屋」は、また別の形で稼働させていくことにした。
TerraとMusicの動画、そして音楽コンテンツを上げていく場所として。

形は変わるけど、思想は同じ。
“場”としての部屋。

昨日は、月に一度のStudio Kuraへ。
やっぱり、あそこに集まるアーティストたちは凄い。

そして改めて感じた。
海外のアート界は、まじで広い。

それに比べて、日本はどうだろう。
右脳的な人が圧倒的に少ないというより、
右脳の人たちを、無理やり左脳側に寄せようとする風潮が強すぎる気がする。

合理性、説明、効率、正解。
それらに合わせられない感覚を「変」として処理してしまう社会。

これ、なんて呼べばいいんだろう。
才能の矯正? 感性の矮小化?
少なくとも、健全ではない。

Studio Kuraで出会ったアーティストの中に、
cole roberts という表現者がいた。

https://coleroberts.one/

彼は、音と写真を使って自己表現していた。
特に刺さったのが、音。
たまに field recording をやると言っていた。

環境音。
世界の呼吸みたいな音。

それが、写真と一緒に存在していた。

「たまらなく良い」と思った。

そして、ある瞬間に認識が切り替わった。

目の前にいるこの人は、
“凄い人”なんだ と。

その理由は、とてもシンプルだった。

自分のHPを持っている

Instagramにある程度のフォロワーがいる

自分の作品を cole roberts 名義 でサブスク配信している

ちゃんと、活動の形=証 がある。

フォロワーは、その後なんだ。

ここで、ハッとした。

「わかってもらえない」
「この世界はおかしい」
「評価されない」

そう叫ぶ前に、
自分はちゃんと世界に挨拶しているだろうか?

「自分は、こういう者です」
「こういう感覚で、こういう表現をしています」

それを差し出さずに、
理解されないと嘆くのは、さすがに筋が通らない。

……そりゃないぜ〜、ふ〜自己ちゃ〜ん。

活動の形を持つこと。
名前を掲げること。
作品を世界に置くこと。

それは、自己主張じゃない。
自己紹介 だ。

世界は広い。
でも、挨拶しないと、始まらない。

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