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「この世は修行である」そう考えると視えてくるこのセカイの真実

長年連れ添った妻と離婚することになった。
私は40代に突入し、妻は30代半ば。子どもは授かっていない。
期間は、付き合い始めた頃から含めると今年で9年目となる。

離婚理由を簡単に言うと、最初は小さな種だったふたりの鬱蒼とした気持ちが見る見る内に成長し、今では枝葉のように無数の存在となった。

本日はその中でも物理的な問題ではなく、思考が原因の問題をひとつ、備忘録的に残しておこうと思う。

これは、同じように悩み苦しみを抱える同志たちへ何らかのヒントとして届けば、と云う思いで書いている。

目次

妻と私の考え方の違い

私と妻の間では長年意見の相違があった。
それは、『この世は修行である』(私)と云う考え方と『この世は安楽の世界である』(妻)と云う考え方の真っ向からのぶつかり合いである。

単なる言葉?どちらかがどちらかに合わせれば済む話?そもそも夫婦生活なんて折り合いの連続?我を押し通そうとそればヒビが入るのは当然?

さっそくそんな批判の声が聞こえてきそうであるが、こういった根源的で哲学的な考えは、人の細胞の一つ一つにまで染み渡り、行動指針となり、全ての基準となってしまう。つまり、非常に根深い。

善行と悪行

こう言うと急に宗教っぽくなるが、まぁ、仏教の根本的な話であるから日本人には馴染み深い感覚であると思う。

道端にゴミを捨てる行為、これは悪行である。
逆に落ちているゴミを拾えば善行。

そんな根本的な話なのであるが、その善行を当たり前のようにできるようになること。世のため人のために有益であることこそが、このセカイノコトワリなのだ。

このセカイは全て鏡となっていて、自分の行動は全て跳ね返ってくる。“跳ね返ってくる”は少し言葉のニュアンスが違うか・・・まさに鏡のように「映される」のである。あなたの行動がそのままに。

行動だけならまだしも、考えそのものも映される。つまり、このセカイでは思っただけで叶うのである。そう、今の自分は過去の自分が「思った(願った)」結果なのである。※この話はこれだけでボリュームが出てきてしまうので次の記事にでもまとめたいと思う。

ここで覚えておきたいことは、とにかく「善行」と「悪行」というものが存在すると云うこと。

徳を積む善行

“この世は修行”派の私の考えでは、この世において(あくまでも現段階の私において)重要なのは『徳を積むこと』なのである。
まず、前提としてお話ししておかなければならないのは【徳】と云うのは道徳的な観点からの考え方だけではなく、実在するものである。

この世の中で最も似た性質のもので例を挙げると【お金】である。
お金は使うとなくなる。しかし、使った分だけ【価値】を手に入れることができる。例えば、スターバックスで500円くらい使うと温かいコーヒーと考え事をする快適な空間を手にすることができる。

これと同じように、【徳】も使うことができる。

100徳使うと、100徳分の価値を手に入れることができるのであるが、ここで厄介なのは先ほどのお金のようにわかりやすくはない。まず、100徳貯めるための善行がどれほどのものなのかも分かりづらい。海辺を30分ゴミ拾いすれば良いのか?近所の困っているおばぁちゃんの庭の草刈りを手伝ってあげたら100徳なのか?お金の世界とは違い、徳の世界において神様仏様はこれら一つ一つの行動に値段を付けてくれてはいないのだ。

しかしながら、徳を積むことはそれほど難しいことでないから安心していただきたい。『楽しく、幸せな毎日を送る。そして、自分の周囲の人たちの幸福を願う』そうしていれば、自然と徳を積める。そう云うものなのである。

徳を消費する悪行

さて、貯めた徳を使う方法は幾つかある。
例えば、以前贈った贈り物のお礼を頂戴した時など、人様からの善意を受け取った時がそうである。普段、徳を積んでいない人はこの「善意」を受け取ることができない。(それは、使う徳を持っていないからだ)

そして、お礼という形で受け取る徳はまだ良い方で、悪行となると、私の妻のように出発時間ギリギリ(1分前どころかギリギリ0分)まで寝る行為を続けていると、せっかく貯めた徳を消費する行為になってしまうのである(笑)

つまり、わかりやすく言うとこの場合は怠惰
サボる、なまける、だらしがない。怠惰は、その場その瞬間だけの一時的な快楽を得ることができる行為であり、人生においては何の役にも立たない(笑)
その毎日の行為に、せっかく貯めた徳を大量に注ぎ込むことは、数年かけて頑張って貯めた100万円でうまい棒10万本買うのに等しい行為なのである。(お金と物質に例えると非常に分かりやすい)

https://www.jigsaw.jp/shop/g/gbev7752489151/ より引用

せっかく貯めた徳は、然るべき形に変えた方が善い。
ただ、それだけなのである。(これは何度も忘れてしまう自分への自戒でもある)

理想的な形は、貯めた徳をまた徳として積める形で使うことである。お金でいうところの投資と回収に似ている。ある程度貯まった種銭を投資で使えばまた実り回収することができる。そうすることで、お金でお金を稼ぐことができるようになる。

徳も同じことであると私は考えている。

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